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『彼らが本気で編むときは、』を観た

『彼らが本気で編むときは、』を観て色々考えた。 

彼らが本気で編むときは、

彼らが本気で編むときは、

  • メディア: Prime Video
 

あらすじ

 

母親が家を出てしまい置き去りにされた11歳のトモ(柿原りんか)が、おじのマキオ(桐谷健太)の家を訪ねると、彼は恋人リンコ(生田斗真)と生活していた。トランスジェンダーのリンコは、トモにおいしい手料理をふるまい優しく接する。母以上に自分に愛情を注ぎ、家庭の温もりを与えてくれるリンコに困惑するトモだったが……。

シネマトゥデイより)

 

感想のテーマ

・「普通」とは

ステレオタイプで思考が停止する

・無敵の関係

 

「普通」とは

”「普通の人」という完璧な人間”の共通概念を、私たちは持っている。

「普通の人」になるのはめちゃくちゃ大変である。

不細工でも駄目だし、美人過ぎてもいけない。

お父さんとお母さんのいる「普通の」家庭で育たなければけない。

異性と恋愛をして、説明の難しい関係の人を作ってはいけない。

全てが順調である、という顔をしていなければいけない。

目立ってはいけない。

 

だから、

母子家庭で、母親がたまに家を出ていってしまうトモは「普通」じゃない。

「普通」じゃないから、隠さないといけない。

助けを求めたマキオに恋人ができていて、その恋人がトランスジェンダーであることが分かった時も、トモは困惑する。「普通」じゃないからだ。

 

でも、こういう状況の人びとが少なからずいることをみんな知っているし、

何の困難もない「普通の」人間なんているはずがないということも本当は知っている。なのに私たちは「普通」に固執する。

 

ステレオタイプで思考が停止する

「普通」に固執したくなるのは、そこに自分の判断が要らないからだと思う。楽だからだ。

「女」「男」「母親」「子供」というステレオタイプのラベルを貼れば、いちいちその人を判断しないで済む。

「女の子だからスカート履くでしょ?」

「男だから女が好きでしょ?」

ラベルを貼れないような人には近づかなければいい。

 

トモのクラスメイトのカイは、同性のことを好きであることを悩んでいる。

しかしカイの母親は「同性愛は罪だ」と彼に言い、カイは一人で悩んだ挙句、服毒自殺をする。

カイの母親はステレオタイプ思考の典型だ。

ステレオタイプの概念に頼って思考停止することが癖になっていると、既存の価値観に当てはめられないものを考える力が無くなる。

だから本当に考えなければならない時、自分が、大切な人が「普通」に堪えられなくなった時も、思考停止して逃げるしかない。自分にとって何が一番大切かということも、まともに考えられなくなる。

 

自分はどうだろうかとハッとする。カイの母親に、全ての人がなり得る。

ステレオタイプから自由でいられるだけの思考力を、鍛えていなければならないんだ。

 

トモも、「普通」に縛られている。家の事情を隠したり、本当は仲の良いカイを、周りの目を気にして遠ざけたりする。

しかし柔らかい思考で生きるマキオやリンコと接していくにつれ、本当の自分の感情に目を向けるようになる。

リンコの美味しい料理を食べたり、一緒の布団で寝てもらったりすることで「お母さん」ではない人からでも、こういうものを受けとっていいんだということに、気づき始める。「普通」に縛られていたことに気づき始める。

 

無敵の関係

リンコが怪我をして入院した際、トランスジェンダーに理解の無い病院で、男性用の病室に入れられてしまうという場面がある。

マキオは看護師に強く抗議し、トモはリンコのもとに急いで駆け寄り、「悔しい」と言って泣く。

同じ痛みを共有して、体裁とかよりも、お互いの傷を真っ先に庇いあう。

こんな関係の人が傍にいたら、怖いものって何も無いなって思った。

 

普通ならデリケートな話題だと敬遠されそうなトランスジェンダーの身体のことについても、3人は少しも躊躇なく、時には冗談を交えながら話す。

互いを尊重してることを互いが知っていて、疑いの余地が無い。

無敵の関係だと思う。「家族」とかそういう名前がなくても成立する、無敵の関係だ。

 

リンコとマキオはトモに一緒に暮らすことを提案するが、

トモは結局、自分を置いて出ていった母親とまた暮らすことを決断する。

 

トモとトモの母親の関係のこと、観る人によっていろいろ感じると思う。

私は最初トモの母親に反感を覚えて、母親と住むというトモの決断をうまく消化できなかった。

でもこの私の考え方の根底には

「家族」なんだから、「母親」なんだから、子供を支えるのが当然、という考えがあって、それをしてくれない=不満や悲しみになる。

でも、もっと柔らかく捉えることもできるのかもしれない。

 

「家族」を、「傍にいて役に立ちたい人」とすると、

その人が何をしてくれるとかの前に、その人が苦しんでいたら嫌だし、自分にできることがあるならしてあげたいと思うなら、たぶんその人のことが大切で、その人とは家族になれる。

トモはきっと、「普通の母親」がしてくれることはしてくれないお母さんだったとしても、そういう意味で母親を家族だと確信できたのかもしれない。

 

他人に関しても、そして自分に関しても、知ったふりをするのはやめよう。

ステレオタイプの概念を使わないで、

気持ちを、関係を、説明してみよう。

自分が本当に大切だと思っているものを見失わないためにも。